般若心経と空の世界

空の世界

この記事は、以前のホームページで書いたものを、そのまま記載しています。

なんか硬い文章で、今見ると恥ずかしいですし、思うところもあるのですが、

訳文自体は結構気に入っているので、そのまま復活させました。

プロローグ

平成8年の6月のとある早朝、午前3時ごろから起きていた私に、突然般若心経を訳くせというメッセージが伝わった。

突然頭の中に響いたのだ。そこで般若心経をひろげてみると、意味がどんどん頭に浮かんでくる。

パソコンのキーボードをたたきながらあっという間に訳してしまった。できあがったものは今までちまたに出ている般若心経の解説本とは、全く違った訳になっていた。

誤訳を修正しようと思い。サンスクリット語の原文を取り寄せ原文の単語の意味を確かめた上でインスピレーションにより意味を考えたが、やはり最初の訳とそれほど変わらない。

かなりかみ砕いて意訳になっているとはいえ、自分には、これが般若心経が真実伝えたかったものではないかと思えた。詳しい解説でもつけて本でも出すかとでも思ったが、忙しさにかまけて、ほうっておいたまま今日に至っている。内容の細かい説明はともかくとして、訳した内容は以下のとおりです。

般若心経の和訳

一切智に帰依し奉る。

聖なる観自在菩薩は深い瞑想行を行い宇宙の根元の魂と一体の境地にいたったとき、一切の苦しみ災厄を生じさせる原因である生命の働きを構成する5つの要素、即ち人間の肉体そのもの、肉体が感受する感覚、感覚により生じた想念、想念により促される行動、行動により生ずる観念の実相は宇宙根元の魂に基づくものであることを悟られ以下のように語られた。

宇宙の子らよ現実の世界は魂の世界と異ならず、魂の世界は現実の世界と異ならない。
即ち現実の世界は魂の世界の現れであり、魂の世界もまた現実の世界の現れとなる。
現実の肉体が感受する苦や快等の感覚、感受された感覚により生じた怒り喜び等の想念、想念により行動を促される衝動や意志である愛や憎悪、及びこれらの行動により生ずる物事に対する観念の実相もまた同様に宇宙根元の魂に基づくものである。

宇宙の子らよ全ての現実界における現象は宇宙根元の魂の世界の法則の上になりたっている。この法則そのものは宇宙の当初より存在しており後から生じたものではなく、永遠不滅のものであり、何にも影響を受けることのない決して汚れることの無いものであり、絶対的に清らかなものであるからさらに清まることもありえず、このように永遠不変のものであるから増えることも減ることも有り得ない。

かくのごとき宇宙根元の魂と一体となった悟りの境地においては、肉体を含む一切の物質現象は存在せず、肉体が感じる感覚、想念、行動、観念も存在せず、我々が物質現象を感受する目、耳、鼻、舌、及び身体そのもの、さらには我々の自我の意識さえ存在しないのである。

従って、物を見ること、声を聞くこと、香りを嗅ぐこと、食べ物の味を味わうこと、物に触れる感触さえも存在しない。

宇宙根源の法は見えない世界若しくは無意識の世界に存在し、そこでは無明から老死に至る十二の因縁もなく、これらが尽きることもない。

生きることが苦しみであるということ(苦諦)、苦しみが諸々の執着による煩悩により生ずること(集諦)、執着をなくせば悟りが開け涅槃に達するということ(滅諦)、及び迷いの世界から脱し涅槃に達するには八正道の実践が必要であるということ(道諦)は宇宙根源の法には存在しない。

悟りの知恵も得るものも定住する所もない求道者が宇宙根源の魂と一体となれるのは自我の心の殻を破ったからであり、自己を覆う殻がないからこそ恐れるものは何もなくなり、一切の執着を絶ち現実界の夢想からさめ涅槃の境地に至る。

過去、現在、未来の諸仏も宇宙根源の魂と一体化することにより完璧なこの上ない正しい悟りを開かれた。

ゆえに知るべきである宇宙根源の魂と一体化するための大神呪を!
これは悟りの神呪であり、無上にして無比の神呪であり一切の苦を除く真実にして虚ならざる宇宙根源の魂により説かれた神呪である。

即ちその呪を説いて曰く。
超えて行け、超えて行け、心の壁を超えて行け、そこに真我のさとりあり

これが悟りの心を伝える教えのすべてである。

和訳般若心経の簡単な解説

サンスクリット語で「シャーリー」とは、「体」をあらわし、「プートラ」とは、「子」をあらわす。すなわち「シャーリー」とは、宇宙本体をあらわしており、宇宙の子であるあなたたちに呼びかけていると解釈するのが適切である。あなたたちは、宇宙の子であり子は成長して宇宙となる。あなたたち自身が宇宙そのものなのである。

最後の呪文は瞑想の方法をといていると見るのが適切ではないだろうか、観自在菩薩が悟りを開いた行は瞑想行だと思われるからである。もちろん最後の呪文はマントラとしての効果もあるが、マントラ自体がカルマの世界の産物である事を考えると、マントラを唱えれば悟りに導かれるというのは本来の解脱の知恵ではないように思われる。過去に般若心経を何十万辺も唱えた人は数多くいると思われるが、解脱にいたった人は何人いたであろうか。それまでの流れから考えても最後の呪文は瞑想の方法を説いているという解釈をしたほうが適切である。
どのような瞑想であるかは字面だけでなく心で感じるべきである。私が具体的に感じたのは以下のような方法である。

まず自分が自分であると感じている心を体の中で、ちょうど胸のあたりで観じてみる。次にそれをどんどん広げて行く、自分の体いっぱいから、地球全体へ、自分が地球そのものである事を意識する。そして更に広げて行く。自分が太陽系である事を、自分が銀河系宇宙すべてである事を意識する。そして最後には自分が宇宙のすべてであり宇宙そのものである事を意識する。

何度か続けていると、意識を広げ行く際に通過して行く星々が現実のように感じられて行く。また自分の体が宇宙空間にぽっかりと浮かんでいる感じが得られるようになる。また宇宙そのものとなった感触が得られたときはなんとも言えない安らぎが得られる。自分自身は今のままで何も変わる必要がない。今のままで自分自身が宇宙のすべてであり、かつ宇宙の一部であり、宇宙の秩序を保つ役割をしている。

般若心経の教えはきわめてシンプルである。真の解脱にいたるための方法には、八正道の教えの実践さえ必要ない。ただ心を広げて行くだけである。
この瞑想法に気づいた後、自分を超えて行く瞑想には単に意識の大きさを広げて行くだけでなく意識の質を高めて行く事が重要である事に気づき、この点から最後の呪文の部分より伝えられるものを感じてみた。それは、次のような瞑想法として感じられた。

心を静めて瞑想し自らの心の質を感じてみよう。自分の意識の中のどんよりとよどんだ濁ったものがどんどん澄み切って行くイメージを持ってみよう。どんどんどんどん澄み切って行く。どんどんどんどん透明度が増して行く。自分の体を感じてた心までもがなくなってしまった。すべての不純物のない澄み切った清らかな世界、何もない自分の体も心も宇宙さえもなくなってしまった。でも何かがある。それが「空」であり、宇宙意識である。
この意識の質を高める瞑想は物質的なものには一切意識を置かないという点で「空の瞑想」であり、先ほどの意識を広げる瞑想は物質的な宇宙をとらえているという点で「色の瞑想」である。

これらは別個に行ってもよいし、同時に行ってもよい。またどちらが優れているというものでもない。「色」は「空」であり「空」はすなわち「色」である。

無苦集滅道について

経文にある「苦集滅道」の四文字は、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四諦を示し、諦は真理を意味します。すなわち四つの真理を表しています。

このうち、苦諦は生きることが苦しみであること、集諦はもろもろの執着による煩悩により苦しみが生ずること、滅諦は執着を滅することにより苦しみがなくなりさとりが開けること、道諦は迷いの世界を脱し涅槃に達するために必要とされる8つの道のことである。そして、八正道とは、正見(正しく見ること)、正思惟(正しく考えること)、正語(正しい言葉を使うこと)、正業(正しい行為をすること)、正命(正しく生活すること)、正精進(正しく努力すること)、正念(正しい思念を持つこと)、正定(正しく瞑想すること)の八つを意味します。

「無苦集滅道」ということは、文字どおり訳せば、「苦集滅道がいらない」ということです。ここが今まで邦訳した仏教家を散々悩ませた点でもあります。釈迦がみずから説いた仏教の根本原則ともいえるような、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四諦が必要ないなどと言ったら仏教そのものを否定することになってしまうからです。

しかし、ちょっと考えてみて下さい。般若心経の神髄が意識の拡張にあるとすると、人間としての自分に意識を置くか、宇宙全体としての自分に意識を置くかで、ぜんぜん話は違ってきます。涅槃とは、宇宙意識と一体化することであり、自分が宇宙意識そのものになることでもあります。分かりやすいように、人間と人間の体細胞の一つで例を挙げてみましょう。

宇宙全体を人間に例えます。そして、人間の体細胞の一つがあなたという存在であるとします。人間の細胞はそれぞれ別個に働いているので、一個一個の細胞には細胞レベルの個別の意識があると考えてみて下さい。

一人の人間の中で毎日何万個もの細胞が死に、また、何万個もの細胞が生まれてくるといいます。例えば1個の白血球細胞にとっては、生きて行くことは苦しみかもしれませんが、人間全体の意識で考えたら1個の白血球細胞どころか毎日何万個もの細胞が死んでいってもそれらの細胞の苦しみは感じません。宇宙も宇宙にあるものすべてを統合した集合的意識を持っており、その集合的意識にまで意識を拡張すれば、宇宙の細胞の一つに過ぎない人間の持っているあらゆる執着は感じなくなります。

従って、人間の立場で順序を追って悟りを開くやり方である苦諦、集諦、滅諦、道諦は必要なくなります(これが、不要だといっているわけではありません。これも、悟りへの一つのプロセスですが、もっと近道があるよというような意味です。)。

もっとも、般若心経の伝えたいことは、このような、物質レベルの意識の拡張よりも永遠に普遍不滅のものを本体としろということではないでしょうか、肉体、霊体、魂の3つから人間の構成を考えてみた場合、ものを考えているのは肉体の脳細胞か魂そのものかということです。浄霊等を通じて感じられることは、死後の霊的存在も意志を持っており、脳細胞が無いにもかかわらず、ものを考えているということです。即ち、肉体は魂が作り出したホログラムであり、霊体は魂の意志に応じて肉体を動かすための、アダプター的なものではないでしょうか。人間の魂は魂のレベルで意識を拡張していけば、宇宙根元の魂そのものとなる。

したがって、まず宇宙根元の魂そのものがあり、そのものの意志によって、宇宙が形成されたのではないか。そして、物質的宇宙を維持するために宇宙の細部に対応した宇宙意識の一部としての人間の魂が、人間の体を作り出したと考えると、魂が本体で、肉体は付録であります。
生まれる前も魂はあった。そして、何も無いところから人間の肉体が生じ、1人の人が生まれ、寿命を全うすると肉体はなくなります。しかし、魂は消滅しない。これこそが永遠に普遍不滅のものであり本体となるのではないでしょうか。

魂の次元において意識を拡張していけば、自分が宇宙を創造する存在になれる。この次元においては未来の情報を書き換えるだけでなく、過去の情報も書き換え可能である。

「解脱とは、肉体及び肉体が感受する感覚が本体であるという心のとらわれから解脱すること、さとりとは、魂が本体であることをさとること」と考えると悟りの意味も簡単になってしまいますね。

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