人は死んだらどこに行くのでしょうか?
人によって、宗教によって答えは違うでしょう。
死んだあとどこに行くのかについてチベット死者の書とか、エジプト死者の書など死語の世界を語る本も出ています。
天国、地獄ってあるのでしょうか。臨死体験をした人の話なども結構あります。
でもどれも今一つ統一性がありません。
死後の世界についてどう思うか、私たちはどう生きればよいのかについて宗教にとらわれない論理的考察でこの永遠のテーマに対する私の見解を一つの答えとして書いてみました。
死んだらどこに行くかについて
死後は、その人が執着していることにより形作られた世界に行きます。
争いごとの好きな人は、同じような人がイメージして釣りあげた世界に行くかもしれません。その人の執着しているものに応じた、エネルギーの周波数のようなものが会う場所に行きます。
何らかの宗教を信じていた人は、その宗教観に基づいて作られた世界に行きます。
…キリスト教を信じていれば、キリスト教の天国に行けるかもしれません。
仏教の浄土宗のようなものを信じていれば、極楽に行けるかも知れません。
人を殺した人は、そういう人の波長の合う世界に行きます。それを地獄と言うかもしれませんが、ただその人の波長に合う場所だと言うだけです。
地獄に行く人はそういうものがあると思っているからそういうものを作りだして、同じようなエネルギーの人同士の中に行ってしまうのです。
何の執着もなく、死ぬ時に生きていた時の自我を捨てられる人は宇宙の全体の魂と一体となります。
ノストラダムスの予言なり、マヤの暦なり、週末を予言するものはいっぱいあります。
しかし、このようなものを恐れることはないのです。むしろ恐れを持ってしまった自分の心を恐れるべきです。
この世が終わるということが、地球が滅亡するとか、宇宙そのものがなくなるとか言う話であったとしても、魂そのものはなくなることはありません。
まだそう簡単には終わらないと思いますし、例え、終わってしまったとしても終わった時は今見ていた映画を観終わって、映画館を出るだけの話です。
そもそもそんなことを恐れたり、恐怖をあおること自体が間違っています。
もし、明日死ぬとしても、死ぬ時には、全ての執着を捨てて、今の自分の意識がなくなったとしても夢から覚めるような感じで、自分の魂はなくならないし、自分の今の意識である自我の下に隠れていた真の自我が目覚めるだけの話だと考えてください。
真の自我とは、宇宙全体の意識です。
ところで、死ぬ時に、うっかり執着を捨てきれないで、自分の執着にとらわれた世界に行ってしまった時はどうしたらよいでしょうか。
大事なことは、死んだら体も無くなるし痛みも苦しみも本来あるわけがない。でも死んだあとに苦しんでいるとしたらそれは全て、自分の意識が作っているものです。
全ての苦しみを自分の意識が作っていることを知って、自分の意識である自我を捨てて宇宙の魂と一体化するイメージをすれば、例え地獄のようなところに行ってしまっても抜けられます。全ての原因は自分の意識が作っているからです。
自分は宇宙の魂から切り離されて、宇宙の一部として、現生を生きてきた、死んだ後は、また、宇宙と一体となろうと思えば良いのです。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと言うようなものです。
宇宙の魂は、全ての人にあり、全ての人は何の修行もすることなく、宇宙としての意識を持っています。人間としての意識から宇宙としての意識に切り替えただけであらゆる苦しみはなくなります。
全ての苦しみは、人間としての意識が作っていたものだからです。
人は、宇宙の一部であって、宇宙の全部でもあります。それは、人間としての意識で考えた時には、宇宙の一部であり、宇宙全体の意識で考えた時には、宇宙の全部だからです。
これが、全体は一つであり、一つは全体であるということの意味です。
宗教は心を豊かにしてくれて、調和をもたらし、心の不安を取り除いてくれる作用があります。
しかし、宇宙意識に到達するには、最後には自分を導いてくれた神も仏も、自らの意識から消していく必要があります。それらは、人間の自我に対して宇宙の調和をために存在したものであり、それらも絶対的なものでないからです。
禅の修行では、瞑想中に神にあったら神を殺せ、仏にあったら仏を殺せと言って、瞑想中に現れてくる全てのもの、導いてくれるものを遠のけます。そして、自分自身の中の宇宙意識につながった真我に目覚めることを目的とします。
これが悟りです。
いろいろな宗教の教えは真如の教えだとはよく言われます。仏教もキリスト教も真如の教えだと私は思っています。
なぜ、真如の教えで、真実の教えではないのでしょう。真実は、神も仏も超えて自分で悟らなければならないからです。悟った人の言葉を理解したのではだめなのです。
宇宙の仕組みを聞いたものを頭で理解してもそれは悟りではないのです。
夜寝ていて、夢を見ている時に、夢を見ていることを感じていることがあります。
これは、今自分が見ているものが夢であることを理解した状態です。
でも理解していても夢の中から抜け出せない時があります。
これが悟りの境地を頭で理解した状態です。
そして、なんとか夢から覚めることが出来た時、これが悟りに当たります。
これが、悟りは、自分で悟らなければならず、人の教えを理解しただけではならないという理由です。
世の中にはいろいろな宗教があります。どの教えも自分の教えだけが正しいと主張します。
でも、全ての宗教を信じることはできません。
あなたは、あなたの信じるものを信じれば良いし、他の人は別のものを信じるかも知れませんが、それは人それぞれです。
但し、どの宗教もその宗教が作っている世界があり、それを信じた人は、それぞれのイメージされた場所に同じような波長をもった者同士で集まります。
天国は光の牢獄、地獄は闇の牢獄と言った人がいます。牢獄とは大げさですが、そういうものだと洗脳された状態では、そういう世界にはまりこんで、それらを否定して抜け出すことは大変な作業になるので、そう言った意味では牢獄かもしれません。
もう一度まとめて言ってみます。
魂は、不滅なので、あなたが生まれる前から宇宙の意思のあるエネルギーとして存在し、あなたが死んでも無くなることはありません。
あなたの魂は、あなたが生まれる前は、宇宙全体の魂と一体となっていて、そして、あなたが生まれる際に人間としての魂に分けられ、そして、あなたが死んだあとには、再び、宇宙全体の魂と一体となる。これが本来の来た場所と行くべき場所です。
もし、死ぬ時に何の執着もなく死ぬことが出来れば、この通りになり、宇宙の魂と一体の一つの魂となります。これを解脱と言います。
これとは別に死ぬ時に何らかの執着があると、その自分の意識に合った世界が作り出され、その世界に行くか、自分の意識の波長のあう意識同士が集まります。これが天国なり、地獄なりになります。
重要なことは、もし、あなたが、明日突然死ぬとしても、死んだ時に執着を持たないよう、日々心がけてください。
普段は、物欲も、性欲もあっていいし、腹を立てても、恨んでもいいけれど、死ぬ瞬間には全て捨ててください。こういうことを頭に留めておいてくれれば、あなたは地獄に行くことはありませんし、行ってしまっても、抜け出し方が分かっているので、抜け出せます。
なお、私は物欲、性欲と言ったものを否定するものではありません。これらは生きていく上で必要不可欠なものだからです。大切なのはバランスです。
そして、これらは死んだ後は必要ないですよね。
体がなくなってしまうのですから。
だから死んだ瞬間にいろいろな執着は気持ち良く捨ててください。
このことを今見たあなたはこのことを信じようと信じまいと知ってしまったのですから、ちょっと一安心です。もし、まずい場所に行ってしまっても抜け出し方は分かると思います。
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